今、小林永濯のhttps://t.co/1SPtAp42VL が展示されていて素晴らしいのだけど、この作品も斬新で面白かった。劇画漫画の一シーンでも見てるみたい。って思ったら、まさに日本の風俗画風の第一人者だったのね。https://t.co/iI60YsU2b4小林永濯 😅 pic.twitter.com/F4BpEIQTQm— 風信子 (@studiohyacinth) 2017年9月9日
小林永濯 こばやしえいたく
- 道真天拝山祈祷の図 綿布・墨、膠彩、水彩(水溶性顔料) 1幅 254x119.5 ボストン美術館蔵
- 菅原道真が太宰府に流罪となった後、天拝山で無実を訴えついに天神と化す天神縁起に基づく場面。同場面は、歌舞伎「菅原伝授手習鑑」が人気を博した18世紀後半以降、しばしば浮世絵などの題材となった。しかし、本作では歌舞伎の一場面としてではなく、道真は突風が吹き荒れと稲光りする現実の天拝山に立つ。体は雷に打たれたかのように硬直し、手は震え杖を手放し、冠と紙片は宙を舞い、今まさに天神と化す瞬間を切り取ったかのような、それまでの日本画にはない劇的で斬新な表現が見られる。
- 製作年代は描写に西洋絵画の手法が窺え、ビゲロー旧蔵品なことから、アーネスト・フェノロサの影響を受けた鑑画会時代の作品とする意見もある。しかし、永濯は明治10年前後には西洋画法に通じて本作を描けるだけの技量を有していた。更に、落款の書体も明治10年頃の特徴をもち、明治7年に描かれた「黄石公張良図」とも落款の書体が一致し、描法にも共通点が多い[1]。更に、その画面の大きさと、綿布と水溶性絵具という通常の鑑賞にそぐわない材質や、画面の四隅にある丸い欠損は杜撰な方法で何かに固定した跡と見なせることから、歌舞伎芝居の絵看板の可能性がある。そこで当時の歌舞伎上演記録を調べると、明治16年(1883年)4月の春木座で、「神霊菅原道実記」が市川右團次 (初代)によって公演されている。しかも、道真が天拝山で祈るまさに絵と同じ場面で、落雷の効果としてマグネシウム発光機が使われており、この演出が客寄せの目玉となっていることから、この春木座公演の絵看板として本作を描いたとも考えられる[2]。